したいの回顧録


 最後にみたのはぶらぶらとしたひるのひかりであとはすぐ泡みたいにまっしろになってしまったので、これからみる情景はきっとすべて悪夢なのでしょう。


(暗幕がつつつと白い手にひかれる)


「鬼畜米兵を殺せ」
「鬼畜米兵を殺せ」
 その時、私は彼らの足元におりました。地面の下ではありません、たしかに地面の上にいて仰向けにしんでいました。その上を軍靴がとおっていくのです。
「鬼畜米兵を殺せ」
「鬼畜米兵を殺せ」
「鬼畜米兵は竹やりでつきころせ」
 行軍のおとはそんなふうにきこえました。不思議と痛みはなくてただくりかえしくりかえし上をとおっていく軍靴が私のからだにくいこむのをひどくつめたいまなざしでみつめていました。くろいかかとが腹をふみつける、白い皮はべろりとむける、胃や腸がこらえきれんとばかりに飛び出す、そのよこで腕はめちゃくちゃになって道のようになっている。骨だけがぴんとつきでてしらじらととんがっている。
「鬼畜米兵を殺せ」「殺せ」
 いったいなにが鬼畜生だというのでしょう。
私はフト赤子のこえを聞きました。オンギャア、オンギャアというまだ乳くさいいかにもひかりにみちたこえです。そこで私は自分のお腹が心配になりました。私だっていつかは子供を産むのでしょう。そのときにこの子宮になにかあっては大変だ……ああで私は男だったのかもしれない。
「鬼畜米兵を殺せ」「鬼畜米兵を殺せ」
 私とまじりあっている泥のにおいも私には感じられませんでしたが、思い描くそれは懐かしいもののように思われました。鬼畜米兵という言葉もどこかで聞いたことがあるような気がしましたが私はただ、軍靴の向こうの空を見ていました。空は重く垂れこめていてすんだいろも私のなかまの亡霊のすがたも見えません。
 生きたい。なんとなく、そんなふうに思いました。


(鬱々とスポットライトが明滅する)


 眼鏡を外した世界はいつだって私にとって最愛の友でした。ハッキリとした世界は私に規格であることを求めます。やいぼっちやろう、おまえの母ちゃんは売女だって……。そんな声が教室の壁だとか木のこずえだとかをとりまいていましたがボンヤリとした世界にいればそんなことはなんでもなくなるのでした。そこには不思議な色と模様とがいっぱいにあったのです。尤も私の知っている母は首から上がなかったので声はそのことを知らなかったのか、もしくは首から上のない女のことを彼らは売女といったのかもしれませんが……。
 ある時、私は    に殴られました。    は言いました。
「お前はおかしい。お前はクズだ。お前は人間以下の畜生だ。」
 私は言い返しませんでした。すると    は仲間といっしょになって私をさらにうちのめすのでした。あの時の痛み苦み……それは忘れがたいものでしたが、それ以上に私は痛めつけられていく意識がハッキリした世界とボンヤリした世界とをなんどもいったりきたりしていくのに夢中になっていました。眼鏡はとっくの昔に割られていましたがそれでもなおハッキリとした世界は    たちのぶよぶよとゆがめられた肉や憎々しげに見開かれた黒いかたまりを写しました。ボンヤリとした世界のほうには抜けるような青空だとかその上を歩くなにかの影だとかがあって、激しくその色彩を二転三転させながらバラバラになっていきました。
 それからのことはあいまいにしか覚えていません。いいえ、あいまいというのも正確ではありません。私がしたこと、見たことを話す術を私は持たないのです。それでも言い表そうとするなら私は唐突に    たちの顔がくずれて輪郭のみとなってそれが気持ちの悪いにやけ顔をつくっているように見えました。私ははじめてそこで恐ろしさを覚え、彼らの顔を空の色でぬりつぶそうとしました。(空は神経質でにんまりと笑っていました。)あとはがむしゃらでした。
 全てが終わったとき、私はいつになく、はっきりと心臓の鼓動を感じました。足元には    たちの輪郭がばらばらになって転がっていました。私はボンヤリとした世界からハッキリとした世界を見下ろしていて、そこで世界を分け隔てるものはもうなくなったのだと考えました。
 これが私のこうふくの夢のあらましです。




 (ぱちぱちと、ろうそくのような拍手のおと)


 ところで私はいったいどこにいるのでありましょうか。私は確かに今自分のアトリエにいて描きかけの絵を前にしているのですがどうにも腑に落ちないのです。私のアトリエはひどく小さくて窓一つなくまるで地下牢のようだと言われています。なかには画材のほかにはなんにもなくていつもろうそくの灯で作業をしていました。人を入れたことは一度もありません。もし他の人間、いや生物の気配ひとつでもしようものなら私は冷静でいられる自信がありませんでした。神経質なたちだったのです。
 私はいま、一匹の猫の絵を描こうとしていました。画家としての仕事でした。ほんとうならモデルとなる猫をアトリエに入れるべきなのでしょうが、どうしてもそれだけは受け入れがたかったので私は依頼主から借りた写真を見て描いていました。私はもともと写実絵画というよりはファンタジィを描くほうが得意なのでさしたる違いもありませんでしたが……。
 ファンタジィはいつも暗闇にねむっています。そこからは無数の色だとか、入り組んだ幾何学模様だとかが休むことなく放出され私のうえにふりかかって、そこから花をつみとるかのように画面に筆を刻んでいくのです。しかし今日はどうにもファンタジィのようすがおかしいのです。かれ(かのじょ)の機嫌は変わりやすいことはよくよく知っていましたが、今私の目の前にあるファンタジィは人のようにして表すのならばぶるぶると神経質に震えていて鮮烈な原色ばかりを私に見せました。ほんとにここは私のアトリエなのでしょうか、いいえそうじゃない、私はここにいるのでしょうか。私は自分でもわけのわからない不安にかられてさっきからもうずっと描きかけの猫の絵の前で考え込んでいました。ぱちぱちとろうそくが燃えています。アトリエは今日も寒いです。お母さん、いかがお過ごしでしょうか。猫が毛を逆立てています。
 ばちん。それはあまりにも不釣り合いな音でした。私ははっと身を起こして音のでどころを探りました。ばちん、弦の切れたような、壁を弾いたような。私はやがて闇のなかに一つの綻びを見つけました。それは確かに綻びとしか言いようがなくて、向こうからはどこか懐かしいひかりが見えた気がしました。わたしはその綻びに指をかけました。少し力をかけるとすぐ裂け目はひろがって、むこうから赤ン坊の鳴き声が聞こえたようでした。さらに広げようとするとやがてなにかにぶつかって私の行為は妨げられました。けれども構わず私が力を加えればぎちり、ぎちり、と嫌な音を立てながら、少しずつ裂け目が開いて向こう側が見えてきました。そこにはしろいひかりのかたまりがあって、複雑にからみあった分子モデルが回転していました。私はそれこそがファンタジィの親玉なのだと確信し無我夢中に穴をあけ、そして穴のむこうに飛び込んでしまいました。
 こうして世界は木端微塵に粉砕されたのでした。


(暗幕がつつつと白い手にひかれる)


 そして私が帰ってきたのはやはりあのまひるのへやでした。まだあくむはおわっていません。
「おかえりなさい」
 私の目の前には首から上のない人間が立っています。私は首を縄にしめられてぶらぶらぶらさがっています。そういえば私は死んでいました。
「いちたすいちはに」
 自殺をしたはよいものの、自殺をするとどうやらこんな悪夢がセットでついてくるらしいのです。もうこれ以上に終わりようがありません。けれどももう仕方ないので私はやっぱり吊り下がったままです。目の前の首から上のない人間もやっぱり私ですので縄からおろしてくれることも、悪夢からすくってくれることもないのでしょう。
 死のあとにあるのは無だと言ったのは誰でしょう。死のあとにあるのは生の延長です。だからさっきから赤ン坊の泣き声がうるさくて仕方がない……。助けてくれ、とは口がさけても言えません。もう私の気道はしまっていますから。
 お母さん、お元気ですか。今日もつつがなく私はぶらさがっています。


 目覚めると正午だった。


                   2011.11.15                      (鬼畜・眼鏡・画家・ぼっち・粉砕の五つのお題で作成)

   

  
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